第1章 おばーちゃんの店
ぼくは大阪の小さな町の小さな文房具屋に生まれた。
正確にはおばーちゃんが主婦のかたわら、小学生相手に草野球に使うゴムボールや、円盤のおもちゃ、体操帽などを扱う横で、学生やサラリーマン向けの鉛筆、ノートや万年筆などの文房具をおいている小さな商店をやっていた。
僕はおばーちゃんの店から、歩いて10分弱離れたアパートにおとんとおかんと妹の良子と4人で暮らしいた。
朝、家から学校に行き帰りは学校からおばーちゃんの店に帰って、夕食を食べて家に帰る。
少しの嫌な思い出は、おばーちゃんの店から家に帰るのはいつも日が暮てからだったので、道端ですれ違うおっちゃんや、警察官がランドセルを背負ったぼくを止めて「ぼく。
こんな時間まで何をしとんねん」と注意されることだった。
当時おとんは証券会社のサラリーマンで、かつては柔道で学生選手権上位入賞という腕前だった。
就職も実業団選手としての入社だった。
おとんが入社2年目の春、力道山の試合見たさに出発間際の満員汽車の入り口手すりにしがみついて、転落して右足を切断した。
今では信じられないが、昔の汽車は閉まるドアなど付いていなかったらしい。
おとんが言うには、「どんなに満員でも汽車が動き出してしばらくすると、人が段々中に押し込まれ手すりにしがみついてても、車内に入れるもんや」
その日は違ったらしい。
「汽車が天王寺の駅を出発してしばらくしても、いっこうに人が中に入っていかへんのや」
「段々手がしびれてきてもうて、平野駅のほん手前で対抗の汽車の風圧に巻き込まれて線路に落ちてしてもうた」力道山に右足を捧げるなんて、ものすごくばかげた話ではあるが、そんな事故に遭って、命があっただけでも幸運だったと、本人はずっと思っていたらしい。
右足を失ったおとんは実業団のチームを退部し、経理部に転属になった。
柔道バカのおとんが、経理の仕事を意気に感じてやっていたかどうかはわからないが、とにかく明るい前向きなおとんだった。
おとんの右足は義足だったけれども、ちゃりんこにも器用に乗っていたし、階段の上り降りも手すりがあれば問題なかった。
出来ないことといえば、車の運転と野球のキャッチャーくらいだった。
おかんは、おばーちゃんの店を手伝っていた。
土曜の午後はいつも、おばーちゃんとおかんとぼくの3人で船場の文具問屋街に出かける。
ぼくは土曜の午後が好きだった。
文具問屋街に着くと馴染みの問屋を何件か回る。
問屋街でぼくはちょっとした人気者だった。
いく先々で店員さんがぼくのかばんに新作の消しゴムやらシャーペンやらを入れてくれるのだ。
特にシャーペンの新作は限り無く魅力的だった。
振ったら芯が出てくるものや、握る部分にボタンがついていて、それを押せば芯が出てくるものなど。
翌週の月曜日、さっそく手に入れた新作シャーペンを学校で見せびらかすのが何よりも快感だった。
ぼくはおばーちゃんの店に時々とまった。
若干建てつけが古いのか、冬ものすごく寒かったけれど、ぼくはおばーちゃんの店がとても好きだった。