第2章 おとんの決断

第2章 おとんの決断

ある日、学校から帰ったら店におとんがいた。
おとんは事務方なのでめったに外回りはしないが、たまに外回りに出て早めに帰って来ることがある。
「おとうはん、今日は早いな?」「いや、朝からおるよ」「熱でたん?」「いや、お父ちゃん会社辞めてん」多少びっくりはしたが、それより嬉しい気持ちが優っていた。
幼いぼくに一家の大黒柱が会社を辞めるということの意味はわからず、ただドキドキしていた。
それはこの先どうなるのか?やっていけるのか?という不安が先行する大人には持てない「これから何か、とても楽しい事が起こる」という子供ならではの直感である。
今になって思うが、そういう幼い直感は現実になる可能性が高い。

「おとうはん、これから何のお仕事すんのん?」答えはわかっていたのだが、どうしても確かめたかった。
「おばーちゃんと一緒にこの店するんや」「やった!!」ぼくは天にも昇る気分で心臓はバクバク鳴っていた。
はしゃいで飛びまわっていると、おかんが突然怒りだした。
「何が「やった!」や!!、いっこもええことあれへん!」店の中の空気は凍りついた。
ぼくはおばーちゃんの顔を覗きこんだがおばーちゃんは目を合わせようとしなかった。
今になってみると、おかんとおばーちゃんのその時の気持ちはわかる。
先の事や生活の不安は当然あったのだが、なにより文房具の商店など働き盛りの男がやる仕事ではないと思っていたのだろう。
そして凍りついた空気はその夜の夕食まで続いた。
なにがなんだか分からないぼくを哀れに思ったのか、おばちゃーんは「今日はおばーちゃんとこ泊まっていき」」といってくれた。
いつもならおばーちゃんに気を使って、おかんが2、3回「泊まんのはアカン!!」と反対するのだが、その日だけは何もいわなかった。
夕食が終わり、おとんとおかんと良子(妹)が3人で家に帰った後、おばーちゃんが500円札を差し出した。

ナカハラのおっちゃんの店、まだ開いてるからお菓子とジュース好きなだけ買うておいで、おかんに内緒やで・・」ぼくはナカハラのおっちゃんの店へ行き、ラムネとオロナミンCとお菓子を何個か買って帰った。
お風呂に入りテレビを見ながらオロナミンCをちびちびと飲んだ。
その時、大人がお酒を飲む時の気持ちを少しわかった気がした。
そろそろ寝る時間になった頃、思い切っておばーちゃんに聞いてみた。
「おばーちゃんはおとうはんと店すんのん嫌なん?」「嫌なことあれへんよ・・。
」ぼくの心臓はまたドキドキした。
その夜、布団の中でいい考えを思いついた。
「明日はいつもより早起きしておとんを駅で待ち伏せしよう。

もし気が変わって会社に行ってしもたら大変や・・。
」しかし翌朝、おばーちゃんに起こされて目が覚めたら学校に行く時間だった。

あせったぼくは、店が始まる時間まで学校をサボろうかとも考えたがうまい言い訳が見つからず、渋々学校に行くことにした。
その日の授業はもちろん上の空で、終業のチャイムと共に学校から走って店に向かった。
おとんは店の奥に座っていた。
心臓は昨日の倍のスピードになっている。
ぼくは店の前で大声を上げ泣いた。
その日の夕食はいつもの夕食だった・・。

第3章 通天閣

第3章 通天閣

おとんが文房具屋デビューして次の土曜日、5人で船場に仕入れに出かけた。
先週までは、ぼくとおばーちゃんとおかんという面子だったが、そこにおとん加わり、さらに良子までついてくることになった。

おとんが良子を誘った。
「りょうちゃんも一緒にいくか?」
「行く!!」
良子はどこに何しに行くかも知らず、ただおとんに誘われことがうれしくて返事していた。
いつもはおかんの姉の中川のおばちゃんのところに良子を預けていた。

ぼくは良子を連れいくことに反対だった。
「仕入れは大事な仕事で遊びにいくのではないのだから、きっと足手まといになる」そう考えた。
おとんは長い距離を歩くが苦手なので、自転車で駅まで行くといって先に出た。

駅までの道すがらぼくはおかんに、何度か言ってみた。
「良子は中川のおばちゃんとこに預けといたほうがええんちゃう?」おかんはぼくの進言を無視はしないまでも、軽くあしらっていた。

ぼくは少し良子に意地悪をした。
おかんの見えないところで背中を押したり、手をわざとぶつけたりした。

良子はぼくと違い根性があるというか、芯が強いというか、とにかく滅多なことでは泣いたりしない。
案の定、良子がいたせいで、駅までいつもの1.5倍の時間がかかった。
駅舎が見えた時、おとんは自転車の荷台に座ってタバコをふかしながらぼく達をまっていた。
おかんが切符を買っていたとき、ホームに水色の電車が入ってくのが見えた。

ぼく達は急いで改札を通り電車に乗り込んだ。

土曜の午後の上り電車はいつもがらがらで乗客もまばらである。

ぼくはいつものようにはおばーちゃんの横に座り、窓の外を眺めていた。

新今宮の駅あたりで、車窓から通天閣が見える。

通天閣は大阪のシンボルであるが、東京タワーなんかと比べ、なにか不細工で垢抜けせず、かっこよくないと思っていた。
どちらかと言えばあまり好きではない。
船場に着いて、さっそく馴染みの問屋をまわった。

おとんは今日がデビューなので、「ぼくがいろいろと教えてあげよう。
」心の中でそう思っていた。
南海商事の軒先に着くと、いつもの倍くらい大きな声で「ま・い・ど!!」と叫んだ。

店員が一斉に「はい、毎度!!」と威勢よく返してくれる。
ぼくは一端の店主気取りだった。

おばーちゃんとおかんは仕入れ帳簿と在庫の帳簿を見ながら、慎重に商品をカゴに入れている。

ぼくはおとんの腕を引き、店内を自慢げに案内した。

その後、3件の問屋をまわり、来週分の仕入れは終わった。

帰りの電車は行きよりも少し混んでいた。
当時の日本は週休1日で会社も学校も土曜日は半どんというスタイルだった。
車内は早めの一杯を済ませたサラリーマンと、まじめに残業をしたサラリーマン、部活終えた学生と買い物帰りの人がおおよそ均等にまじりあっていた。

良子は車内をキャッキャと騒ぎながら走りまわっていた。
ぼくの前を通過しようとした瞬間。
ぼくの手は良子の頭を思い切りたたいていた。

「バチーン」自分でもびっくりするくらいの音がして車内は静まりかえった。

そして車両にいた全員がぼくのほうを見た。

5秒後、目をまんまるにした良子の泣き声が車内の沈黙をやぶった。

おかんはあわてて良子を抱きかかえ、頭を撫でながらなだめ、同時にぼくの頭をこずいた。

良子の叫び泣きはおかんがなだめればほど大きくなっていき車内に異様な空気が漂った。
ぼくたちは次の駅で下車した。

電車を降りてからもいっこうに泣きやまない良子をおとんが抱き上げ、ほっぺたにチューをしたところでようやく声を上げなくなった。
今度はぼくの目に涙が溢れてきた。

悪いことをしたという思い、反面そんなつもりではなかったという自分への言い訳、いろんな思いが涙となって溢れ出た。

本当は声を上げて泣きたかったのだけれども、それだけは絶対にあかんと自分に言い聞かせ、必死でこらえた。
次の電車を待っている間、だれも何も言わなかった。
しばらくしておとんが「学生の頃よういった店が近所にあるから、餃子でも食うて帰るか」と独り言のように呟き、改札に向かった。
みんな無言のままおとんの後ろについていった。

改札をでたら目の前に通天閣がそびえていた。
涙でにじんだ通天閣はますます意地悪な色で、ぼくののことを鼻で笑っているように思えた。

第4章 オートマチック TOYOTA かむり

第4章 オートマチック TOYOTA かむり

サラリーマン時代のおとんは多少の熱やおなかいたでも滅多に会社を休まなかった。
仕事振りは実際に見たことがないので、本当のところはわからないが、少なくとも勤め人としては真面目な人だと思っていた。
けれど文房具屋デビューを果たしたおとんは、しばらくぶらぶらしていた。

向かいのくすり屋にしょっちゅういっては将棋を差していた。
くすり屋はガラス扉だったのでうちの店から中の様子が良く見えた。

おとんとくすり屋のおっちゃんは将棋の勝敗にお金を掛けていたようだ。

くすり屋のおっちゃんのリアクションがあまりにも激しいので、店から眺めているだけで、どちらが勝ったかはすぐわかった。
おとんの将棋の腕前は決して凄いというほどではなかったけれど、だいたい3回に2回はおとんが勝っていた。

ぼくはおばーちゃんとおかんにその勝敗をちくいち報告した。
「くすり屋のおっちゃん今日3回とも負けや・・。
」「おとうちゃん帰ってきたらアイスクリームこうてもらい。
」おかんもおばーちゃんも、おとんがぷらぷらしていることについては、特別怒っているような様子でもなく不思議だった。
ある日を境におとんは夕方から晩ごはんまでの間、ほとんど毎日出かけるようになった。

くすり屋にも行っていないので、不思議に思いおかんに聞いてみた。

「おとうはんどこ行ってんの?」「自動車学校や」ぼくはおとんが免許を持っていないのは、足が悪いせいだとずっと思っていたので、すごく驚いた。
今でこそオートマチック限定という言葉が有名で最近出来た制度のように思われているが、実は何十年も前からあったのだ。
1ヶ月くらいたったある日、おとんは免許書をもって帰ってきた。
免許の中のおとんは普段と違う黒縁メガネで赤のチェックのネクタイをしていた。
一生懸命笑顔を作っているのは良くわかるが、どう見てもにやけているようにしか見えない。

おかんが免許みて「なんかみなみの食いだおれ人形みたいなや」といったのでぼくとおばーちゃんは大笑いした。
いつもは、からかわれると逆に喜ぶおとんだったけれど、この時ばかりはさすがにむっとしていた。
それから3週間くらいたって免許のことも忘れたかけていたある日の夕方、ぼくが店の奥でテレビを見ていた時、4人連れのお客さんが入ってきた。

3人は背広にネクタイのおっちゃんとおにーちゃんで1人は女性だった。

おおよそ、うちの店に来るお客さんとは雰囲気が違っていたので少し気にはなったが、テレビの漫画がいい場面だったので、ぼくはテレビの前から離れなかった。

少し何か話した後、おとんとおかんが、すぐにそのお客さん達と外に出ていった。

しばらくするとおかんが「昭洋、ちょっと外に出といで!!」といつもと違う感じの声でぼくを呼んだ。
ぼくは何か面白いものが見れるということを直感し、あわてて外に飛び出した。

店の前には緑の乗用車が止まっていた。

「おとうちゃんの車やで」とおかんがいった。
はじめはおかんのいっている事がよく理解できなかったのだが、次第に事の大きさを実感し背中とお尻の間がこそばくなった。
あまりにも興奮していたので、ただただ車を見つめ、ものが言えなくなっていた。

おかんはちょとがっかりした様子で「なんや。
反応薄いな・・。
」といった。

当時オートマチック車はものすごく珍しく、推測ではあるがぼくの町にはおとんの車だけで、大阪府下でもそんなになかったんじゃないかと思う。
車の販売店もオートマチックの納車はめずらしかったようで、営業マンが2人とお姉さんが1人、所長まで納車に立ち会ってくれた。

ひととおり車の説明やら、書類の引渡しなどが終わった後、お姉さんが車のトランクから花束を出しておとんに差し出した。

「おめでとうございます。
」とお姉さんが言うと所長と2人の営業マンが拍手をした。
おとんは照れくさそうに花束を受け取った。

その後、おとんとおかんとおばーちゃんと良子とぼくと、なぜかくすり屋のおっちゃんが入って、車をバックに記念撮影をした。
おかんとおばーちゃんが夕食の支度をしに店にはいった後も、ぼくとおとんは車の周りを何度か回って見たり、シートに座ってみたりしていた。

おかんが「ごはん出来たで」と呼びに来たので、ぼくらはしぶしぶ店にはいった。
夜ご飯を食べているとおとんの同級生のおっちゃんがぞくぞくと店にやってきた。

やって来たおっちゃんの行動は人が変われどみんな大体同じだった。

「昭男ちょっとエンジンだけ掛けてきてもええか?」とおっちゃんが聞く。

「乗ってきてもええで」とおとんが言う。

「ほんまか!」とおっちゃんがいう。

おとんが鍵を渡す。

おっちゃんが店を出て車に乗り込み町内を1周か2週して帰ってくる。

「昭男、ええ車やんけ」とおっちゃんがおとんの車を褒める。

おばーちゃんが友達にビールを注ぐ。

の繰り返しだった。
ぼくは内心、車に傷がついたりしないかドキドキしていた。
おとんは好きなビールに手をつけなかった。
きっとこれからドライブに連れっていってくれるんだなと思った。
いつもは、おとんの友達が店に来て飲んでいくのが嬉しくて、帰るといった時にはなにかさみしい気持ちなる。

けれど、今晩だけは「早く帰ってくれ!」と心の中でお祈りをした。
そんな気持ちが通じたのか、おとんの一番の親友、アッサンが「今から臨時の同窓会やるぞ!「道草」に移動や!!」と言った。
「やった!!」と心の中で叫んだ後、少し不安なった。

お酒好きのおとんはお酒の誘いを断ったことがないからだ・・。
皆が帰り支度をばたばたと始めた。
ぼくはおとんの様子をずっと見ていた。
同級生連中も察していたようだった。

おとんを誘うことなく「ほな、おばちゃん、ご馳走さん」とおばーちゃんに礼を言って出ていった。
おかんが手早く洗い物を済ませると、おとんが「ほなちょっと行こか・・」と言った。

おばーちゃんは「私は怖いからやめとく・・。
」と言った。

ぼくはとにかく早く行きたかったので、ひつこく誘うことはやめた。

店を出て4人で車に乗り込んだ。
ぼくは助手席座っておかんと良子は後ろの席に座った。

あらかじめ決めていた訳ではないが、ものすごく自然だった・・。
おとんがまじめな顔でキーを回してエンジンをかけた。
後ろのおかんもおとんと同じくらい緊張していた。
ぼくは背中とお尻の間くらいがさっきの何倍もむずがゆくなり、少し腰を浮かせた。

車は店の前の路地を抜け国道25線に出た。

信号2つ目で赤につかまった。

その交差点にはよく行く中華屋「来来軒」がある。

おとんは信号待ちの間に「らーめん食うて行くか?」と聞いた。

おかんは「さっき食べたばっかりやろ」とあきれて言った。

ぼくも「おなかいっぱいや」と言った。

おとんも「わしもおなかいっぱいや」と言った。

提案者含め満場一致でおとんの案は却下となった。
初の家族ドライブは30分くらいだったと思う。
家に帰って、ぼくは、おかんと良子と風呂に入った。

その後おとんが風呂に入り、あがってからおいしそうにビールを飲んでいた。

ふとんに入ってからもしばらく寝付けなかったので、ぼくは車で仕入れに行くのを想像してみた。
また、背中とお尻の間がむずむずとなった。
何日か後、車屋のお姉さんが車がやって来た日に取った記念写真を持ってきてくれた。
おとんの顔は相変わらずにやけていたが、その写真のおとんは免許証のおとんと違いすごく自然だった・・。

第5章 ブルーメタリックの万年筆

第5章 ブルーメタリックの万年筆

おばーちゃんのお店は築45年になる。
もともと普通の住居だったのだが、7年前おじーちゃんが死んだのをきっかけに玄関と居間の壁を取っ払い、ちょっとしたお店が出来るように改造した。
きっとお店でもしていればおばーちゃん一人でも寂しくないと思ったのだろう。
全体的に老朽化し、あちこち痛んでいたので、大雨の日は所々で雨漏りがする。

だいたい雨漏りがする場所は決まっていたので、商品が濡れないよう陳列棚はそこを避けて置かれており、そのため全体のレイアウトがややいびつになっていた。
そんな古びたおばーちゃんのお店の中で、他とは雰囲気が違う一画がある。

そこは一番入り口に近い陳列棚で、他の棚は殺伐しているのだが、そこだけはいつもぴかぴかで、高級万年筆が20本くらい整然と並んでた。
万年筆は半年に1本くらいしか売れない。
町内の人の身内や親戚が進学したり、学校を出て就職したりする時にお祝いとして買ってもらえるケースがほとんどだった。

仕入れに値が張り、かつあまり売れない万年筆を置いていたのは、おそらくおばーちゃんの文房具屋として唯一のプライドだったように思う。

当時の文房具屋にとって万年筆は鮨屋のトロと同じ存在だった。
仕入れも他の商品と違い慎重だった。

万年筆が売れた次の仕入れの日は筆記具のマルハタに行き、1時間か1時間半かけて慎重に品定めをしていた。
おばーちゃんは必ず2本の万年筆を仕入れた。

そうやって初めは5本くらいの在庫が、一本売れるたびに倍になり20本くらいまでに増えた。
1年ほど前に近所の大工さんにお願いし、本体が白板できれいなガラス張り飾り棚を、店の外からでも見える位置に作り、そこに万年筆をディスプレイしていた。
ある日の夕方、学校から店が見える角まで帰ってきたら、店の前にパトカーが止まっていた。
ぼくは胸騒ぎがし、走って店に飛び込んだ。

おかんとおばーちゃんが青ざめた顔で立っていて、おまわりさんが2人刑事ドラマと同じように現場検証をしている。

そして何があったか聞く前にガラスが粉々になった飾り棚が目に飛び込んできた。
白昼堂々の強盗事件だった。
後でわかった事だが、おとんが市役所に出かけ、おかんが夕飯の買い物に出かけるタイミングを見計らい、さらにおばーちゃんが店の奥に引っ込んだ隙をねらった犯行だった。

店からバリーンというガラスが割れる音がしたので、おばーちゃんが店に出た時、既に犯人は外に出ていて、走り去る後ろ姿だけ見えらしい。

一通り現場検証が終わり、警官が帰った後、おとんは「じろさんのとこ行ってくる」と言って出て行った。
じろさんはおとんの中学の先輩で町警の係長をやっていた。
おとんはじろさんにお願いし犯人を早く捕まえて商品を取り戻そうと考えたのだと思う。

一旦冷静さを取り戻したかに見えたおかんだったが、夕飯したくをはじめてすぐ、米を研ぎながらしくしくと泣いていた。
気丈なおかんがしくしくと泣くところを見たのはこれが初めてだった。

ぼくは、沸々とこみ上げる怒りで体が震えたが、次に何をしたらいいかは考え付かなかった。
その日の夕飯は味がしなかった。
おばーちゃんは平静を装っていた。
おかんは目を張らしていた。
おとんはじろさんのところからまだ帰ってこない。
8時くらいになりようやく、おとんが帰ってきた。

じろさんと一杯やってきて、夕方おこった事を忘れているかのように上機嫌だった。

そして駅前のタカラブネで買ってきたケーキの箱を「おかーちゃんにおみやげや」といってテーブルに置いた。
おとんがおかんに優しい事をしたのも初めてて見た。

おかんはケーキの箱を開けてちょっとだけうれしそうだった。
中にはおかんの好きなチョコレートケーキが入っていた。

みんなでケーキを食べた後、おばーちゃんが真っ暗になった店に行き、なにやら取って戻ってきた。
ブルーメタリック色の万年筆だった。
割れたガラスを片付けている時、棚と床の間に落ちているのをおばーちゃんが見つけた。

強盗があわてて一本だけ落としていったのだ。
おばーちゃんは、それを袋から取り出しインクのカートリッジをセットして4、5回強く振った。
その後、スーパーのチラシの裏に試し書きし、ぼくに手渡した。

「あんたにはまだちょっと早いかもしれへんけどこれ持っとき」といった。
ぼくはずしっと重い万年筆でちらしの裏に○を3つ書いた。

何か字を書こうかと思ったのだけれど、何も頭に浮かばなかった。
おかんはおとんのチョコレートケーキが効いたのか、少し元気になっていた。

そして「よおし!あしたからようさんもうけて取り戻すで!!」とつぶやいたのをきっかけに、おかん自身に勇気がみなぎってきたのがわかった。
翌日、割れた棚のガラスは入れなおしたけれど、店に万年筆が飾られことは二度となかった。
おばーちゃんのお店、金田文具店ではブルーメタリックの万年筆が最後の万年筆になった。